甘辛問答無味感想 vol.31 | 旅するように和菓子と出逢う(旅わが)

うつくしくもしたたかなる細雪

甘辛問答無味感想 vol.312025.06.23

甘辛問答無味感想 vol.31

私は3年ほど前から、

個人ライブラリーを夫婦でやっています。

私たちふたりが所有している

本とかレコードとかを並べただけの

小さなブックカフェのようなものです。

場所は、自宅から駅2つ分ほど離れた、

芦屋川という駅の近くにある

民家の2階を借りています。

この建物がかなりユニークでして、

コンクリート造りの素敵なデザインなのに、

全体が蔦(つた)に覆われてしまって、

ちょっと見たとこでは、

まるで廃墟のようです。

気の利いた人は

「ジブリの森」なんて言ってくれますが、

高さが5メートルもある

分厚い木の扉を持つこの館は、

閑静な住宅街で異彩を放っています。



ところで、このあやしげなライブラリーの近所に、

小さな商店街があります。

商店街といっても

空き地や空き店舗が目につくので、

いささか寂しげな雰囲気が漂っていますが、

小さいながらも個性的なお店が多いので、

私はこの商店街が結構気に入ってます。

商店街の真ん中付近に、

老舗の和菓子屋さんがあります。

大正14年(1925年)創業というから、

今年はちょうど100周年ですね。

私は、おやつにいただくお菓子をここで買います。

このお店で人気なのが、

オリジナル銘菓「細雪(ささめゆき)物語」です。

小豆の皮を取り除いて手絞りしたこし餡を、

丸い最中の生地ではさんだ、

名前通りの上品な和菓子です。



「細雪物語」という名は、

谷崎潤一郎の小説「細雪」に由来します。

谷崎潤一郎は東京の生まれですが、

大正12年の関東大震災を逃れて関西に移住し、

芦屋に住んでいたことがありました。

「細雪」はその頃に執筆されていたそうです。

この和菓子屋さんをよく利用していたらしく、

そのご縁から、

谷崎潤一郎に直接許可をもらった上で、

この和菓子が作られ、この名がついたそうです。

創業100年の和菓子屋さんらしい逸話ですね。



「細雪」は、谷崎の代表作で、

上中下3巻併せて

1,000ページを超える大作なのですが、

私は読んだことがありませんでした。

芦屋にいて本に関わることをしているのに

それでは都合が悪かろうと、

これも何かの縁かもしれないなどと思いながら、

読んでみました。

そうそう「細雪物語」も買ってきて、

それをいただきながら読みました。

名作に丸ごとかぶりつくような

不思議な体験です。



「細雪」は芦屋の美しい四姉妹の物語です。

この作品は何度か映画化されています。

中でも市川崑監督の「細雪」は、

四姉妹をそれぞれ、

岸惠子、佐久間良子、吉永小百合、

そして古手川祐子が演じていて、

市川崑らしい凝った映像と相まって、

ため息が出るような

艶やかな作品になっています。



物語の時代背景は、

昭和10年頃から

太平洋戦争が始まる直前までです。

三女雪子の、何度も繰り返される

お見合いを軸に、

関西の伝統的な美意識がしだいに、

東京の文化に飲み込まれていく様を

丹念に描き出しています。

文体が独特でして、

会話がカギ括弧でくくられず、

状況を描写する地の文と切れ目なく、

句点つまり「。」がないまま、

延々と続いたりします。

1ページにわたって、

ひとつの文章が続くことも珍しくありません。

最初は面食らいますが、

これがだんだんと心地よくなってきます。

長い小説なのに飽きずに読めるのは、

この中毒性のなせる技かもしれません。

この作品を書く前に、

谷崎は「源氏物語」の

現代語訳を手がけていたので、

その影響ではないかと言われていますが、

納得です。



さて、この小説で私にとっての注目ポイントは、

芦屋および神戸界隈の描写です。

どれもこれも、私が今いる、

すぐ目の前の通りとかが舞台なのです。

この商店街のことも出てきます。

和菓子屋さんは出てきませんが、

登場人物たちがかかりつけにしていた医院は、

今もこの商店街にあります。

大昔の小説だと思っていましたが、

とても身近に感じられるようになりました。



谷崎潤一郎は「細雪」を

戦前に書きはじめましたが、

軍部の検閲に引っかかり、

連載が差し止められました。

女性たちを主人公とした優雅な物語が、

挙国一致の戦時体制にそぐわない、

と判断されたのでしょう。

しかし、その圧力をものともせず、

谷崎は「細雪」を密かに書き続け、

戦争が終わってから、

ようやく出版することができました。

軟派と見られがちな、

谷崎の気骨を感じさせる逸話です。



戦時体制では、小麦や砂糖が統制されるので、

お菓子も作りにくくなります。

和菓子も小説も、平和だからこそ

ゆっくり味わえるものなんだと、

谷崎潤一郎が歩き、

物語の中で美しい姉妹たちも歩いた商店街を、

春風に吹かれて歩きながら、

そんなことを考えていました。



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